キューピー&ファッション 

キューピー人形用の洋服を作ってファッションを楽しむ

「月遅れのひな祭りの不思議?」とキューピーの春の着物姿

 キューピーのひな祭り用の新作着物が3月3日に間に合わなかったので旧暦のひな祭りの日程に合わせました。月遅れのひな祭りです。やった~~。今年は長~~くひな祭りが楽しめます。長くひな祭りを楽しむ間に疑問が生まれました。

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帯結びが可愛いです。
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正面と後ろ姿も見てね!帯留めを忘れてます(後で気づきました)。

ひな祭り用の着物

 春を象徴するピンク系パステルカラーの着物の生地を使って仕立ててもらいました。紬の帯もステキです。帯結びの片側のたれを長めにしました。後ろ姿のアクセントになりました。ただ、キューピーのママは慌てて生地の色だけで選んでしまい、柄を考慮していませんでした。よ~~く見ると、もみじと菊の柄なんです。秋の気配の柄です。柄を気にせず色で春を感じてください。仕立ても上手になりましたよ。袖の縫い方に格段の進歩がありました。今回は長くなるので別日にお教えします。

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正面と背面です。おはしょおりもちゃんとあります。
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裏地の仕立てもすてきでしょ。八掛もちゃんとつけました。

ひな祭りの疑問

 ひな祭りは桃の節句とも言われます。キューピーがこの節句で不思議に思うのは、梅の花が咲く季節に桃の節句と言い、ひな壇には桜が飾られていということです。皆さんは、変だなあと思ったことありませんか?

 3月3日頃であれば、桃の花ではなく梅の花です。東北地方では桃の花はまだ咲かないので、梅の花を飾る風習があるそうです。明治以前は旧暦でしたから新暦だと4月の初旬になります。そうであれば桃の花と桜の花の季節になります。旧暦で節句を花で表現するなら「桃の節句」に納得できます。しかしながら雛飾りに桜が飾られています。桃の花ではありません。なぜ?

新暦と旧暦

 新暦のひな祭りは3月3日です。旧暦では約1ヶ月後の4月になります。旧暦の3月3日は新暦の3月3日とはならないのです。2020年の旧暦の3月3日は新暦の4月26日。2021年の旧暦の3月3日は新暦の4月14日。2022年の旧暦の3月3日は新暦の4月3日。
 新暦は太陽の運行に沿って日を数える「太陽暦」です(エジプトを起源とするグレゴリオ暦)。地球が太陽の周りを1年で周りますから季節の移り変わりと一致しています。旧暦は月の満ち欠けで日を数える「太陰暦」と「太陽暦」を組み合わせた「太陽太陰暦」です。単純に新暦の3月3日が旧暦の4月3日にはならないのです。

梅・桃・桜

 梅、桃、桜の共通点はバラ科に属しピンクの花を咲かせるということです。花が咲く時期は地域にもよりますが梅の花は1月下旬から3月上旬、桃の花は2月下旬から3月下旬、桜の花は3月上旬から4月中旬です。3種類のバラ科の花は約3か月という時間をかけて春の訪れを表現しているのですね。
 私たちが桜と言っているソメイヨシノは、江戸時代に交配された品種です。日本の在来原種の一つで長命な「江戸彼岸」はソメイヨシノより開花時期が早いです。

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桜の花を近くで見たくて木登りです。着物姿なのにね。

結論

 日本は南北に長い国ですから、3月3日という1つの日にちに絞った場合、春を告げる花が梅・桃・桜の3種類にわたるということですね。キューピーは、女の子の節句というより冬から春を待ちわびた宴と解釈しることにしました。

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左近の梅と天皇

 雛飾りには桜と橘(「左近の桜」「右近の橘」)が飾られていますが、もとは「左近の梅」だったそうです。梅は中国から渡来した外来種で、52代嵯峨天皇(809〜823)が平安京に建設された内裏の紫宸殿の南側の庭には、「左近の梅」と「右近の橘」が植えられました(嵯峨天皇は中国文化に傾倒していたので、在来種の桜ではなく輸入された梅を珍重したんですね)。
 梅から桜に植え替えられた時期には2つの説があります。1つ目は62代村上天皇の時代に「内裏(だいり)」が全焼したときに梅から桜に植え替えられた(940年)という説です。2つ目は承和年間に梅が枯れたために梅から桜に植え替えられたという説です。承和年間は、嵯峨天皇の息子である仁明(ニンミョウ)54代天皇の時代です(830〜850)。二つの説の間には100年の開きがあります。
 嵯峨天皇は中国に傾倒し遣唐使を派遣していました。遣唐使の派遣は、仁明天皇時の833年が最後になりました(894年に菅原道真の進言により遣唐使が廃止されました)。十二単の話の時にも少し触れましたが、遣唐使の中止により海外の文化に変わり国内の文化に目を向けるようになります。同志社女子大学の吉海先生は、日本文化に目を向けようとした時代と梅が枯れた時期が一致しており、日本の在来種の桜に植え替えたと考えていらっしゃいます。この説がスッキリします。

おまけ

 天皇の名前は亡くなられた後に贈られるそうです。現役の天皇はお一人だけですから「天皇」とお呼びすれば良いということで名前でお呼びする必要もなかったということでしょうか。名前のつけ方には業績をたたえる「諡号」と住まいなどの地名を使う「追号」があるそうです。亡くなられた後に名前が贈られる特徴として怨念を鎮めるために「徳」の字が使われ、理想の天皇の意思を継承した天皇として「後」が使われています。人は、生まれたときに命名されるとばかり思っていましたが、そうでない例もあるのですね。

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