キューピー&ファッション 

キューピー人形用の洋服を作ってファッションを楽しむ

キューピーのファッション探究 十二単製作 ①十二単誕生までの日本を見てみましょう!

    着物は何枚か着たけれど十二単を着たひな祭りのお姫様(内裏の中宮様)になりたくて、なりたくてたまりません。中宮様は十二単をお召しになってますからキューピーにも十二単を仕立てて。ということで十二単って言いますがどのような構造になっているのでしょう。十二枚の着物を重ね着しているから十二単? まずは、文献探しから。  

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「五衣」の重ね色:紅色もかわいいですが高貴な紫もいいなぁ

文献1:仙石宗久著「十二単のはなし」という本を見つけました。読み方がわからない漢字ばかりですが、ルビが振られているのでラッキー、助かりました(ルビがなければ一目見ただけで本を閉じていたところです)。 この本の内容からわかったことは、十二単は時代と共に変化し一つではないということです。面白く興味を持った一部をご紹介します。

    お雛様は、親王であるお内裏様と中宮様ですからお召し物は宮廷装束です。そこで宮廷装束についてみると、おおもとは702年大宝元年に制定された「衣服令(いふくりょう)」です。718年養老二年の服制では大陸の唐に倣って重要な儀式に着る「礼服(らいふく)」、宮廷に出仕するときの公務服である「朝服(ちょうふく)」、無位の官人が着る「制服(せいふく)」の三等級がありました。翌年「衣服令(えぶくりょう)」で全ての人は、右襟(右前)に着るよう定められました。それまでは唐に倣って左襟でした。また、洋服は男女で右前・左前がありますが着物にはありません。1300年前の令が今に続いているのですね。服制で決まりごとが定められましたが、女性の服はまだ十二単ではありません。「鳥毛立女図屏風(とりげりゅうじょずびょうぶ)」の樹下美人像のタイプです。高松塚古墳の美人壁画の方がイメージしやすいかもしれません。まだまだ唐の模倣で十二単には程遠いです。

     894年寛平六年に遣唐使が廃止されることによって大陸の影響が薄れ、日本独自の服装に変化していくことによって十二単が生まれたということです(ひとりごと:遣唐使が派遣されて唐や大陸文化が伝えられ、宮廷の人々は海外の情報をトレンドとしていち早く競って取り入れていたのかな。遣唐使が廃止され海外の情報がなくなれば独自の工夫を加えて差別化をする。みんなに自慢したい誇りたい気持ちが働き独自の進化を辿ったのかなあ)。

    古い記録では、「女装束」「女房装束」「裳唐衣(もからぎぬ)」という言葉が散見されるそうですが「十二単」という言葉はなかったそうです。十二単が初めて記述されたのは、「平家物語」の中で壇ノ浦に身を投げる建礼門院平徳子(けんれいもんいんたいらのとくこ)の装いです。

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「五衣」の重ね色:春の萌黄色もステキですが絞りの布を重ねてもグッド

   また、「十二単」の「単」とはもともと肌着であった衣(きぬ) ことで、単のうえに褂(うちぎ)を例えば八枚重ねると「八ツ単(やつひとえ)」、十枚で「十単(とおひとえ)」十二枚で「十二単」となるわけですが、現在、単(ひとえ)の上には九枚しか身につけません(十二単は、1.白の「小袖(こそで)」に紅精好(べにせいごう)の「帯」を締め、足に「襪(しとうず:現代の靴下)」、2.緋色の長袴、3.単、4.〜8.五衣(五色五枚の重ね着:重ね色目には意味があります)、9.表衣、10.打ち衣、11.唐衣、12.裳の順に身につけていきます)。本来は、単(ひとえ)の上に袷(あわせ)の着物を十二枚身につけて十二単と呼ばれるべきものですが、俗称になっています。現在の十二単の正式名は、「五衣・唐衣・裳」というそうです。

   キューピーは、平安時代のファッションである正式名称のトップを飾る「五衣」の色合わせを夢に見ちゃいました。どんな色合わせが似合うかな。(๑・̑◡・̑๑)。迷っちゃいます。十二単までの道のりは遠いかも?時代によって十二単は変化してるのですから、いつの時代の十二単にするか難題です。十二単にも流行?があったということですね。